2016年3月30日水曜日

ポジティブ思考の限界地点


出産の記憶はほとんどない。
数カ所からの点滴と
隣で手を握って泣いてるダンナ
交代で私の上にまたがってお腹を押す先生と看護師さん。
意識はモウロウと
吐きながら私は出産した。


吸引分娩で、赤ちゃんの頭には、ぱっくりの傷口と血。
私の身体には肋骨のヒビと骨盤の痛み。
ひよこクラブのハッピー育児からはすでに見放される。そんなスタート。


となりで寝ているのに、泣いてもすぐに抱っこできない。
溢れる愛情と母性と同じ量の罪悪感で私はいっぱいになった。

*罪悪感


夕方、まだ首が据わらない娘を横抱きにして
外の空気を吸いにマンションの下に降りたら

みかんみたいな濃い夕焼け

突然、涙がボロボロボロボロ。
ボロボロボロボロとまらなくなった。

自分でも予期せぬ涙で、とまらない。

まっすぐたてないへんな姿勢で
娘を抱きながら
というよりも
娘にしがみついて
わんわん泣いて
心の中で
叫んだ




「助けて」




みかんの夕焼けの前で、命が二つ。
夕焼けのマルい形と
命の形がマルだと感じてマルが3つ。



ドラマみたいな状況やんか。
高齢出産した女が泣いた



今回のケーススタディ
コラム風味はどうかしら
カナコです。






喉が熱くなるまで泣いたけど
心の中で助けてって言ったもんだから
当然、誰の耳にも届いていない。
何を助けて欲しいのか自分でも分からない。


泣きながら階段をあがって部屋に戻る。
ベランダにしとけばよかった。
ドラマじゃないしこんなもん。


この日から3年。*罪悪感は消えない。
罪悪感の種類が増え続ける。
あの時の「助けて」を私は探し続けた。


私のオタク度が湧き上がる。





理想の母親像、または父親像、家族像、引き寄せ、
イケてるママ、自分らしく、不妊、結婚、独身、、、、。
など、人も社会もたくさんの価値観で溢れている。



価値観、といってしまうと人はザラっと、何かしらの反応を起こす。


感動して揺さぶられる時は受け入れやすいけど
それ以外は受け入れにくい

ちょっと怖い。
なので急いで隠す為にイラっとザラっっとあの手この手でスルーする。


でも、人生には避けては通れない場面に時々出くわす。


行き詰まり、病気、結婚、出産、失恋、人間関係のトラブル、お金、障害、死、、など。


そう。自分と向き合う時には、少し痛みを伴う。



そういう時はこの価値観、という言葉を、「設定」や「固定観念」という単語におきかえてみる。
「設定」「固定観念」
どっちでもいい。好みの方で。



そもそもの設定、固定観念、の中で人はいきている。
子どもからお爺お婆になるまでずっと。例外なく。

その設定、固定観念、から外れた事が起こった時、人は
怒る、悲しむ、苦しむ、イラつく、モヤモヤする。自分にも、相手にも。


そんな時は、ほっとく。
ほっとくとどうなるか。時間が解決して、、、、、、、、
くれない。
感情は通り過ぎるけど、設定、固定観念が変わらない限り、カタチを変えて、本質の同じ事が何度もやってくる。



なので

むかし話でいうと、
天国のお爺お婆が

スピ的にいうと、
大天使が
守護霊様や
カルマが


宗教、信仰でいうと
試練が、神が


心理や仕組みでいうと
潜在意識や
インナーチャイルドが


真理でいうと
自分と愛が


そして宇宙が
All That Is


古代文明でいうと
善が、、、マニアックになってきた。
また今度。




その設定、おかしいで
ええ加減気ずきや
苦しいやろ
ってサインを出してくる。


それが、この世でいう
スルーできない「イラつく出来事、悲しい出来事、苦しい、痛い、そしてイタイ出来事」
として起こる「しくみ」になっている。

この「しくみ」私の好物。


設定の書き換え
アップデートのように
設定を変えないと
心はエラーが出まくる。


なぜ、これだけたくさんの言い回しを出すかというと、
人にはそれぞれ、取り入れやすい、理解しやすい、好みの"ルート"があるからです。
それぞれルートが違うのです。
それぞれのルートにナンクセをつけるのはナンセンス。


さて
私の場合、ざっくり言うと妊娠、出産、という出来事を通して過度のポジティブ思考に限界がきた。
厳密にいうと
「ポジティブでなければならない」
「ポジティブでなければ幸せになれない」
という思い込みを整理する時がきた。



妊娠して、激しいツワリと同時に、大好きだった職を失い、
家族とうまくいかなくなり、体も心もエラーだらけで
実家と絶縁状態のまま出産した。


私は家族が大切だったし旦那よりも先ず家族を優先していた。
そんな私が、家族の望む思考が出来なくなり
家族の望む、私でいられなくなった。
家族に拒否され会えなくなるのは正直、地獄の様に苦しかった。

・ポジティブ
・前向き

私はこの言葉が好きだし
この標識を目指して生きてきた。

この言葉の先に
・愛や優しさ
・光
があると思い込んでいた。


でも、それが出来ない場面に何度も出くわす様になってきて
どういじっても今までの思考では自分自身が通用しなくなった。


目指す思考と、ミスマッチな感情が長く続いてしまう事、誰でもあると思う。
思考と、感情の方向が一致しない事を「葛藤」というけれど
この「葛藤」を、それぞれのルートの中で
ポジティブ思考が、いったいどこまで通用するか。適応できるのか。
ポジティブを、どう扱うのか。本当にプラス思考で乗り越えられるのか。
そんなお題目がきてしまった。


スルー出来なかった。



ひと昔前なら、自己啓発や、何でもかんでもポジティブに、プラス思考に、という概念が充満していた。
ポジティブを良し、という設定におくと「無意識」に
ネガティヴが悪、嫌、だという設定に置いてしまうという。


何でも、良い状態、という仮説や設定をおいてしまうと
それにハマらなかった時、無意識にそれを悪い、として認識してしまう。

例えば極端にいうと

家族は多い方がいい
と思っていると
無意識に
片親や、少ない家族の子は
かわいそう

とか


心の奥底にそんな設定がふんわりできる。
陰と陽、対極の世界生きる、3次元、での法則、仕組み、のひとつだと知った。



これがめっちゃ好き!って事があると、無意識のうちに、その対極にあるものを嫌うようになる。
その感覚で人までもをジャッジしてしまう。


こうやっできるなんとなくの「好み」のはずが
無意識のうちに「偏り」として価値観になって組み込まれていきます。



この偏りの価値観であふれている。
この偏りの価値観で誰かを責めたり、自分を責めたりする。



この「偏り」の「ない」状態、場所を
センタリング、中央に配置する、0(ゼロ)地点、グラウディング、無、とよんだりしますね。
流行りのグラウディングの意味を履き違えてはいけない。



そう、対極といったけれど
実は対極の間にこのゼロ地点がちゃんとあるのです。


このゼロ地点が存在している事を軸に置かないと

知らない間に人を傷つける。自分も傷つく。
(深い真理でいうと傷つきはしないけど)

だって
よくよくよくよく整理すると

たくさんの家族で育つ子と
少ない家族で育つ子の
命の価値は違うの?

健康な子と
病気の子の
命の価値は違うの?


産まれて祝福された命と
産まれて祝福されなかった命と
命の価値は違うの?

普通の子と
障がいのある子と
数ヶ月で亡くなる子の
命の価値は違うの?

お年玉もらえる子と
お年玉ない子の
命の価値は違うの?


違わない。
と私は思う。


全ての始まりや構築、は「3」
と言われているように

ポジティブとネガティヴの間に
トリニティ
という場所がある。


何が言いたいかというと
命の場所はトリニティだという事。
ゼロ地点だという事。


ポジティブでなく
ネガティヴでなく


どこまでもゼロ地点だという事



お金があっても、貧乏でひもじくても
健康でも、病気でも、
成功しても、失敗しても、
勝っても、負けても、
仲間がいても、孤独でも、
自立しても、依存しても、
笑っても、泣いても、
許せなくても、ウジウジしても
清々しくても、嫉妬に狂っても、
子供を産んでも、産まなくても、
家族に看取られても、孤独死しても
うまくいっても、いかなくても、
ポジティブでもネガティヴでも

どんな状況であれ

命の場所は変わらない。

命の価値は変わらない。

どんな事を選択しても

あなたの価値は変わらない。



ポジティブに限界を感じて
ネガティヴにいくしかなくなった。


毛嫌いしていたネガティヴを見つめた時、
トリニティというとても暖かな場所をみつけた。


このトリニティのエリア、いろんな仕組みがつまっている。
ネガティヴも大切な感情のサインです。
毛嫌いしないで大切に扱ってみる。


うちではダンスや日々の生活を通じて
心をさわりながら自分をフォーカスすると
新しい自分がみつかる
本来の自分を知る
そんな提案や発信をしていこうと思います。

感情の種類や
罪悪感の正体
お金と心の関係
など

一見ザラつく題材も


毛嫌いしたり逃げると不安や恐れが追いかけてくる。
向き合うと優しい真理を教えてくれる。


負の中には自分の要素がたくさん詰まっていると思うんです。


ポジティブになれない時でも


安心して生きていい。


あなたがあなたの影と仲良く出来ますように。













春のグラウンディング























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