2016年3月30日水曜日

ポジティブ思考の限界地点


出産の記憶はほとんどない。
数カ所からの点滴と
隣で手を握って泣いてるダンナ
交代で私の上にまたがってお腹を押す先生と看護師さん。
意識はモウロウと
吐きながら私は出産した。


吸引分娩で、赤ちゃんの頭には、ぱっくりの傷口と血。
私の身体には肋骨のヒビと骨盤の痛み。
ひよこクラブのハッピー育児からはすでに見放される。そんなスタート。


となりで寝ているのに、泣いてもすぐに抱っこできない。
溢れる愛情と母性と同じ量の罪悪感で私はいっぱいになった。

*罪悪感


夕方、まだ首が据わらない娘を横抱きにして
外の空気を吸いにマンションの下に降りたら

みかんみたいな濃い夕焼け

突然、涙がボロボロボロボロ。
ボロボロボロボロとまらなくなった。

自分でも予期せぬ涙で、とまらない。

まっすぐたてないへんな姿勢で
娘を抱きながら
というよりも
娘にしがみついて
わんわん泣いて
心の中で
叫んだ




「助けて」




みかんの夕焼けの前で、命が二つ。
夕焼けのマルい形と
命の形がマルだと感じてマルが3つ。



ドラマみたいな状況やんか。
高齢出産した女が泣いた



今回のケーススタディ
コラム風味はどうかしら
カナコです。






喉が熱くなるまで泣いたけど
心の中で助けてって言ったもんだから
当然、誰の耳にも届いていない。
何を助けて欲しいのか自分でも分からない。


泣きながら階段をあがって部屋に戻る。
ベランダにしとけばよかった。
ドラマじゃないしこんなもん。


この日から3年。*罪悪感は消えない。
罪悪感の種類が増え続ける。
あの時の「助けて」を私は探し続けた。


私のオタク度が湧き上がる。





理想の母親像、または父親像、家族像、引き寄せ、
イケてるママ、自分らしく、不妊、結婚、独身、、、、。
など、人も社会もたくさんの価値観で溢れている。



価値観、といってしまうと人はザラっと、何かしらの反応を起こす。


感動して揺さぶられる時は受け入れやすいけど
それ以外は受け入れにくい

ちょっと怖い。
なので急いで隠す為にイラっとザラっっとあの手この手でスルーする。


でも、人生には避けては通れない場面に時々出くわす。


行き詰まり、病気、結婚、出産、失恋、人間関係のトラブル、お金、障害、死、、など。


そう。自分と向き合う時には、少し痛みを伴う。



そういう時はこの価値観、という言葉を、「設定」や「固定観念」という単語におきかえてみる。
「設定」「固定観念」
どっちでもいい。好みの方で。



そもそもの設定、固定観念、の中で人はいきている。
子どもからお爺お婆になるまでずっと。例外なく。

その設定、固定観念、から外れた事が起こった時、人は
怒る、悲しむ、苦しむ、イラつく、モヤモヤする。自分にも、相手にも。


そんな時は、ほっとく。
ほっとくとどうなるか。時間が解決して、、、、、、、、
くれない。
感情は通り過ぎるけど、設定、固定観念が変わらない限り、カタチを変えて、本質の同じ事が何度もやってくる。



なので

むかし話でいうと、
天国のお爺お婆が

スピ的にいうと、
大天使が
守護霊様や
カルマが


宗教、信仰でいうと
試練が、神が


心理や仕組みでいうと
潜在意識や
インナーチャイルドが


真理でいうと
自分と愛が


そして宇宙が
All That Is


古代文明でいうと
善が、、、マニアックになってきた。
また今度。




その設定、おかしいで
ええ加減気ずきや
苦しいやろ
ってサインを出してくる。


それが、この世でいう
スルーできない「イラつく出来事、悲しい出来事、苦しい、痛い、そしてイタイ出来事」
として起こる「しくみ」になっている。

この「しくみ」私の好物。


設定の書き換え
アップデートのように
設定を変えないと
心はエラーが出まくる。


なぜ、これだけたくさんの言い回しを出すかというと、
人にはそれぞれ、取り入れやすい、理解しやすい、好みの"ルート"があるからです。
それぞれルートが違うのです。
それぞれのルートにナンクセをつけるのはナンセンス。


さて
私の場合、ざっくり言うと妊娠、出産、という出来事を通して過度のポジティブ思考に限界がきた。
厳密にいうと
「ポジティブでなければならない」
「ポジティブでなければ幸せになれない」
という思い込みを整理する時がきた。



妊娠して、激しいツワリと同時に、大好きだった職を失い、
家族とうまくいかなくなり、体も心もエラーだらけで
実家と絶縁状態のまま出産した。


私は家族が大切だったし旦那よりも先ず家族を優先していた。
そんな私が、家族の望む思考が出来なくなり
家族の望む、私でいられなくなった。
家族に拒否され会えなくなるのは正直、地獄の様に苦しかった。

・ポジティブ
・前向き

私はこの言葉が好きだし
この標識を目指して生きてきた。

この言葉の先に
・愛や優しさ
・光
があると思い込んでいた。


でも、それが出来ない場面に何度も出くわす様になってきて
どういじっても今までの思考では自分自身が通用しなくなった。


目指す思考と、ミスマッチな感情が長く続いてしまう事、誰でもあると思う。
思考と、感情の方向が一致しない事を「葛藤」というけれど
この「葛藤」を、それぞれのルートの中で
ポジティブ思考が、いったいどこまで通用するか。適応できるのか。
ポジティブを、どう扱うのか。本当にプラス思考で乗り越えられるのか。
そんなお題目がきてしまった。


スルー出来なかった。



ひと昔前なら、自己啓発や、何でもかんでもポジティブに、プラス思考に、という概念が充満していた。
ポジティブを良し、という設定におくと「無意識」に
ネガティヴが悪、嫌、だという設定に置いてしまうという。


何でも、良い状態、という仮説や設定をおいてしまうと
それにハマらなかった時、無意識にそれを悪い、として認識してしまう。

例えば極端にいうと

家族は多い方がいい
と思っていると
無意識に
片親や、少ない家族の子は
かわいそう

とか


心の奥底にそんな設定がふんわりできる。
陰と陽、対極の世界生きる、3次元、での法則、仕組み、のひとつだと知った。



これがめっちゃ好き!って事があると、無意識のうちに、その対極にあるものを嫌うようになる。
その感覚で人までもをジャッジしてしまう。


こうやっできるなんとなくの「好み」のはずが
無意識のうちに「偏り」として価値観になって組み込まれていきます。



この偏りの価値観であふれている。
この偏りの価値観で誰かを責めたり、自分を責めたりする。



この「偏り」の「ない」状態、場所を
センタリング、中央に配置する、0(ゼロ)地点、グラウディング、無、とよんだりしますね。
流行りのグラウディングの意味を履き違えてはいけない。



そう、対極といったけれど
実は対極の間にこのゼロ地点がちゃんとあるのです。


このゼロ地点が存在している事を軸に置かないと

知らない間に人を傷つける。自分も傷つく。
(深い真理でいうと傷つきはしないけど)

だって
よくよくよくよく整理すると

たくさんの家族で育つ子と
少ない家族で育つ子の
命の価値は違うの?

健康な子と
病気の子の
命の価値は違うの?


産まれて祝福された命と
産まれて祝福されなかった命と
命の価値は違うの?

普通の子と
障がいのある子と
数ヶ月で亡くなる子の
命の価値は違うの?

お年玉もらえる子と
お年玉ない子の
命の価値は違うの?


違わない。
と私は思う。


全ての始まりや構築、は「3」
と言われているように

ポジティブとネガティヴの間に
トリニティ
という場所がある。


何が言いたいかというと
命の場所はトリニティだという事。
ゼロ地点だという事。


ポジティブでなく
ネガティヴでなく


どこまでもゼロ地点だという事



お金があっても、貧乏でひもじくても
健康でも、病気でも、
成功しても、失敗しても、
勝っても、負けても、
仲間がいても、孤独でも、
自立しても、依存しても、
笑っても、泣いても、
許せなくても、ウジウジしても
清々しくても、嫉妬に狂っても、
子供を産んでも、産まなくても、
家族に看取られても、孤独死しても
うまくいっても、いかなくても、
ポジティブでもネガティヴでも

どんな状況であれ

命の場所は変わらない。

命の価値は変わらない。

どんな事を選択しても

あなたの価値は変わらない。



ポジティブに限界を感じて
ネガティヴにいくしかなくなった。


毛嫌いしていたネガティヴを見つめた時、
トリニティというとても暖かな場所をみつけた。


このトリニティのエリア、いろんな仕組みがつまっている。
ネガティヴも大切な感情のサインです。
毛嫌いしないで大切に扱ってみる。


うちではダンスや日々の生活を通じて
心をさわりながら自分をフォーカスすると
新しい自分がみつかる
本来の自分を知る
そんな提案や発信をしていこうと思います。

感情の種類や
罪悪感の正体
お金と心の関係
など

一見ザラつく題材も


毛嫌いしたり逃げると不安や恐れが追いかけてくる。
向き合うと優しい真理を教えてくれる。


負の中には自分の要素がたくさん詰まっていると思うんです。


ポジティブになれない時でも


安心して生きていい。


あなたがあなたの影と仲良く出来ますように。













春のグラウンディング























2016年3月8日火曜日

オレが俺に気がついた時

オレとストリートダンス

ダンス歴31年
ここまで続けてこれたのは
ぶっちゃけて言うと



辞めるタイミングを見失った



からだと思う



なぜタイミングを見失ったか。



多くの人は
最初に衝撃を受けてダンスに夢中になる。
オレも例外ではない。
衝撃を受けて夢中になった。



しかし

衝撃受けすぎて
夢中になりすぎて


踊っていない時がマズイ。
実にマズイ。
どうマズイか。


不安が襲ってくる

ダンスで食えるのか

親や人に理解されたい

認められたい

年をとってもこれでやれるのか

ダンス以外の仕事をやれるのか

。。。etc

今の楽しさと不安が交錯する日々。
不安な日々を誤魔化すために踊っていた時代もあった。

この不安と承認欲求
オレの可能性を大きく塞いでいた


ダンス歴31年
認めてくれよ歴28年


誰にやねん。
一体オレは誰に認めて欲しいねん。


人は今の現状を潜在的に好んで現実化していると言われる。
という事はオレは

ダンスが好き
と同じかそれ以上に
不安が好きだった
という事になる。


オレは好き好んで不安になっていたという。



もっと早く気づけばよかった。

自分で自分を認める

これでよかったのだ。



・この真理はちょっと深い

これに気がつくには「コツ」が必要で
この「コツ」をつかめば

何か知らんけど

ダンスはうまくなる。


ダンスうまくなりたい人は
練習するよりも
本当の自分
に気がつく方が
好きになる方が
なんぼも早い。


ブラザー&シスター


伸び悩んだり
行き詰まりを感じる時は
必ず
他人の価値観を生きている時だ。



ここにつまづく人が何と多いことか。


自分のアイデンティティーを塞いでいる人が何と多いことか。



びびるな。  スルーするな 。勇気を出して


自分に集中しろ。








ストリートダンスとは

アイデンティティーそのものである。



ストリートダンスは

君の味方だ。




2016年3月1日火曜日

Peace と Piece で よろしく

この日このおじさんは


前者後者トレーナーを着た。


彼のオリジナルトレーナー。


汗だくで暑いのになんでトレーナー。


シルエットが出るねん。



結局さいごまで彼は脱がなかった。





bbe-boy. Top Rock バトル



俺ポッパーやけど

こっちもすきやし

みんなも

ポップバトル

出よーぜ

って言うてる時の写真を頂きました。




今日はこのおじさんの一部をテーマに
書いてみよう。



何でもそうだけど  (ダンス以外でも)

自分のジャンル、ツール、

以外のものを

理解しに行くって

基本

すんげー  Peace

やと私は思っていて

それなりに

勇気と根性がいるとも分かってきて

でもそこはダンス愛が支えてくれているようで

そこには深い気づきと喜びが待っていてくれて

結果「PEACE」というパズルがハマる。


•パズル Piece


昔じゃなくて

少し前は

色々踊る人はワンジャンルに対する愛が少ない

とか

浅い、ミーハー

とか色々聞くと

私は彼の事を言われているような気になって

勝手に落ち込んだりもした。


彼は俺はダンス愛があるからえーねん

知るか

と、どーって事なさそうで

ほんとに気にもせず

彼は生きていたような気がする。

そう、私は大きな全体像が見えていなかった。


うちは

•MASTAR PEACE ROCKERS

というHIP HOP集団に

HIP HOP精神をドープに教えてもらって

そう、ドープに。

根こそぎ救われた。

根こそぎ笑った。

それまでどんなやねん。

無茶苦茶か。

ゲロッパ。


30代後半だったと思う。彼はある日突然言いだした。

「人生でやり残した事がある」

そして

プーマのヤッケ紺✖️赤を

岡山まで買いに行って


プロケッツのアップターナー3本線のシューズ


カンゴールの帽子を用意して


オオーーーーーBronx!ーーーーー


•Bronx    (NYにあるHIP HOP発祥の地域でのスタイル)


とか言って喜んで

Hook up  BREAK

へ行って、見事に散った。

•Hook up BREAK         (bboyのダンスバトル)

当時の彼の気持ちを

いち早くキャッチしてくれたのは

チェリーさんで

ひとりバイクで来てくれた。


どアウェーの空間に緊張でえずきながら

•彼は緊張するとえずく

チェリーさん  「なんやこれ 緊張するやんけ」

マサオ               「やばいっす」

チェリーさん    「行くぞ、本気や。MASAO」  

マサオ               「ういっす」


とか言って入っていった。

彼のムーブが終るとチェリーさんは私に

「アホやで。ファンキーとしかいいようがない。

こーいうの、ファンキーっていうねん、かなちゃん、覚えとき」

って言われた。

彼が帰ってくるとチェリーさんは

「次も絶対行け。MASAO」

「ういっす」

「ビールおごったる」

「あーざす」

みたいな。

私はファンキーの定義ががまるで分からなかった。

このやりとりを本気でやってるおじさん2人のほうがファンキーに感じた。


ファンキーってなんだ?


•おじさん          (尊敬の意を込めた私の若くない男性への表現の言葉)

この時、どんな気持ちだったのか

彼にさっき聞いたら

ビートストリートがやりたかった。と言った。

アホなのか

ファンキーなのか

あれから数年です。チェリーさん。


•ビートストリート        (ストリートダンサーのバイブル映画)

•ファンキー FUNKYの定義についてはおもしろすぎるのでまた今度。

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

さて

ふざけたようにもみえる

この文献には

ファンキーの定義だけではなく

色々と詰まってまして

・やり残した事

・他を理解しにいく質感

・クリエティブ

・最後のピースのハマり方と

・その後の質の深め方

など色々ありまして



ここから自分に置き換えると



私は幼い頃からの不思議と

障がい児教育に15年向き合って

知りたかったのは

いのち、生きるって何や


って問いに

教育だけではどーしても答えはでず

密接した

医学的に、でもまだ埋まらず

スピリチュアリズム

というジャンルの理解を入れる事で

最後のパズルのピースがはまりました。

そして

その命の質感を

さらに感じたくて

心理学

人間の心の仕組み

感情の種類とエネルギー

宇宙の真理

チャクラや瞑想

などを

学びに行っている最中。

学ぶというより

知りたくてしょうがない

調べて

見つけて

体感するのが

好きでしょうがない

その質感を

触って

感じて

この3次元の地球で

思考と言葉に変換して

笑いたい

地球はこういうところやと

娘にいいたい

そういう大きな目的みたいなものがあります。


どのジャンルやツールを触っても

結局、ある一定のレベル、ゾーンにいくと

どのジャンルの人とも通ずるとなんとなく思っていて

というか、そういう傾向にあると感じていて

なぜか、そのゾーンに到達すると

否定は少なく

他ジャンルにも答えがある事を知ってる人が多い

なんだったら

専門的にやってる人ほど


クリエティブに


さらにおもしろい答えを出す事が多い。


違う個々が独立しながら

同じゾーンやレベルで

集まるコミュニティーが

波長だったり

クリエティブ集団だったり

パラレルワールドだったり


「ピースゾーン」と名付けた場合、

この地球は必ず対極が存在するので


違うゾーンなのに同じ種類の恐れや依存、などをもつ

コミュニティーは

「エゴゾーン」

そんな

パラレルワールド

が存在するのかな。

するやろな。


そんな風な仮説で

見てみたり

思考って

理屈ではなく

クリエティブに使うと

おもしろいのです。


私は旦那に出逢った頃は

この人は

ゲロッパ宇宙人かと

思っていたけれど

思考の使い方と

感じにいくファンキーさを


あわせると

なんかしらんけど

PEACEっぽくなるぞと

教えてもらった気がする。

心も頭もフルに回転させる彼ですが


現在46歳。

精神年齢は

小4でとまっているらしい。


彼に限らず

多くの場合

自分の性質や思考パターン

人との関係性の持ち方などは

6歳までにできあがり

そこからそのパターンを

家庭、学校という社会で

再現して行く。

と言われる。

そんなケーススタディもまた今度。





ダンス屋MASAO君を

今後ともごひいきに。

かしこ。







ファンキーってなんだ?







2016年2月9日火曜日

直感(心の声)と反応(心の癖)


長野県の雪山へいきました。
市内の駅ですでにこの透明感



透き通る空気と


朝焼けに染まるロッジ





息を吸うと


気管支に入って、内臓にはいって


手と足の指から出て行く。


電線のない場所で


テレビやネット、携帯電話、


人との関係や今日の段取り、


頭の中で常に動いているものを


止める。


思考停止にする


マインドを止める



そんな時、私は


第6感


心の声が



ようやくでてきます。



ようやくです。


自分はどうしたいのか


ほんとはどう思っているのか


そこまでしてやっと出てきます。


その声に従ったら



世界がひっくりかえりました


常識だった事が、それちがうんだ


って


ダメ、禁止していた事が


それ、いいんだ!私もやっていいんだ!って


真逆。さかさま。あべこべ。


になっちゃった。




自分の感を信じている人


自分の感を信じていない人


気持ちにも感にも種類があります。


その気持ち、感、ホントですか?


自分を信じるな、自分を信じるんだ!




今日はそんなハナシのカナコです。





結論から言うと


私は普段の日常生活からの


私の気持ち、たるものは


たいして信じていません。


私の場合でいうと、


やたら相手を肯定したり


違う意見なのにだまってニコニコ頷いてその場を過ごしたり



逆に、大事なメールは後でじっくり返信したくて後回しにしてみたり



これ、私の反応パターンです。


心の癖なんです。


とにかく、嫌われないように


相手に好いてもらえるように




違う意見だと嫌われる



と思い込んでいるのです。勝手に。


あ、




旦那にはバッコバコ言う。


これでもかってくらいこう思う


って言う。


でも外では


なるべく自分の意見よりも


相手に合わせて


一緒の気持ちだったら


一緒一緒!って盛り上がる。



後出しじゃんけんみたいでちょっとズルい。


そう。私はズルイ。


根性なし。



そうしないと嫌われる


そうしないと、まわりが困る


って


勝手に思い込んどる訳です。




そんな事、だれも望んどらんよね。



表裏がチラホラ見える方がキモいよね。


本心言う勇気がないから、


微妙な会話しか成り立たない。


公園のママ友か。


そのくせ


誰かと繋がりたいと思ってる。


その癖、ええ加減、終わりにしなはれ。






そんな自分だけの価値観


信じている事が



自分のルールが

もしくは

先祖代々教えられた価値観や道徳が


ひとりずつ


個人個人に


山ほどあります。


他の例でいうと


お金を稼ぐ人は汚い
断ってはいけない
新生児は抱き癖をつけてはいけない
調子にのってはいけない
いつも笑顔でないといけない
障害のある人はかわいそう
ポジティブでないといけない
ひとりっ子はかわいそう

とか

さらに奥へいくと

自分だけ幸せになってはいけない
不安を持ってなくてはいけない

と、よくよくよくよく考えると


んなわけねーだろがっ


とびっくりする設定が出てきます。


人の数カケル倍率、さらに倍、
くらい種類があります。

時代背景や、教育でできたものも多く


ホント、この設定だけは奥が深い。


自分では気づきにくいからやっかい。


新生児抱かずにどうするっ!ってね。


その先祖代々のルールと自分の心が違う時、


エラーとして


なんかつかれた


とか


ストレス


というサインで知らせてきます。

なので


定期的に情報を手放して



思考をとめて


頭の中を空にできる僻地で


普段、溜め込んでいる、それってホント?を

整理する時間が必要。




心の声が出てくるのを待つのが好き。



自分はホントはどうしたいのか。



自分はホントはどう思っているのか。




私は私に会いに僻地へいくんだなと最近は思います。





人には、人それぞれシステムがあります。


その人を形成するシステムができているのです。


その人が信じているシステムが作動して、目の前の事実は作られていきます。


このシステムにはカラクリがあって


とても簡単に出来てしまいます。


2.3回繰り返せば


すでにパターンとなり


その設定をかければ


根強く、とても根強く、


根を張って自分を支配していきます。


自分の知らないところで。





勝手にやってんじゃねーよ!




許可をとれ許可を。





って言いたいよね。



直感(心の声)と 反応(心の癖)



似たような感触ですが違うのです。


全然違うのです。




直感(心の声)だ!と思う事が



自分の反応(心の癖)だったという事が



実に多いのです。




でもこれって、


自分の中では常識になりすぎて


当たり前すぎて


自分のファンデーションになりすぎて



疑ってもみないので


まさか自分の信じてきた事が


え?嘘なの?


ってうっすら感じても


常識が変わるなんて


ちょっとやそっとで



受け入れてたまるか!



思春期か!


くらい


最初は


激しく抵抗してしまう事アリ。



そして



大人になればなる程



このシステム(価値観)はロックされていく




このロックを外した所に



ホントの自分のキモチや


夢が


今か今かと


待っている


そう、実にたくさんのシステムで(価値観)で自分を縛っているのです。



夢さえも縛られているのです。


自分で制限かけているのです。


こんな夢は見てはいけないと。


でもそれってほんと?





「見てきた事や


    聞いた事


    今まで覚えた全部



     デタラメだったら面白い



    そんな気持ち分かるでしょ」


ってヒロトも歌ってるよ。



自分と向き合うなんて



めんどくせーからやらない


という選択肢もあります。


それもあり。


しかし


なんかモヤモヤするとか


まだまだ自分に納得いかない


やってもやっても、満足や欲しい結果がでない


という人は


この自分のシステムを


疑ってみる


まさかの

まさかの

まさかの


疑ってみる。


これが必要です。



だってね、


このシステムは自分の大事な人が


教えてくれたものばかりだから



過去に失敗した自分が(失敗したと思い込んだだけ)


自分で積み上げてきた大切なものだから




親、先輩、師匠、めちゃくちゃ世話になった人、恩がある人、



そんな人の教えやアドバイスを聞かないなんて


何より、自分を信じてやってきた訳だから



それを裏切るなんて


ありえなくて苦しいわけです



自分のシステム(価値観)が




私達の身体中



ココロに


巻きついているのです。



心が思考とシステムでぐるぐると


焼き豚みたいに


巻きついているのです。



カテゴリーに分けると




心、魂




に対して





システム(価値観)、反応パターン(心と思考の癖)




という感じでしょうか。




心は開放されたくてしょうがない。




メンタル鍛えるとは、自分と向き合うとは



このブロックを外す勇気をもつ



という事だと私は思っている。







私のブログで扱う題材はもしかしたら



少し重いかもしれない。



でも、このブロックをひとつひとつ外していかないと


命というものが見えてこない。


生きるという事が見えてこない。



命というものを真ん中において


生きるというテーマを


ダンス屋の切り口でコンサルしていくのが


うちのお仕事なわけです。










直感(心の声)と反応(心の癖)


そして自分の価値観、設定、


一度疑ってみる


心の癖ではなく


心の声、心からくる直感(サイン)をキャッチする


それが


自分を信じる



って事じゃないかと



私はおもっている。



私がやってる発達サポートクラス


ここでは


メンタルブロック外し


たるもの



ほとんど必要ありません。



そもそもブロックが必要ない事を



うちのかわい子ちゃんは知っている。




ホントの自分でいた方が



パフォーマンス力があがる



地球はまわる事を



知っている。



気がついちゃいなYO



ひっくりかえりなYO




ビッグスケールの夢をもってる自分を



むかえに行ってあげて。


















あ、君たち





カテゴリーがおかしいよ









































2016年2月1日月曜日

自分の取り扱い説明書

コイツほんま分かってないわ
コイツほんま嚙み合わへんわ
アイツ言うてもほんま無駄
アイツいつか分かる時がくやろ
ハラタツーーーー
ハラタツ
顔は涼しくハラワタ煮えくりかえる



対人関係でこんな事、時々あるんじゃないかと思います。



今日はこんな話を。

私は来月シジューになるけど、自分で自分の事を分かっているかといわれるとビミョー。
分かっているようで分かっていない、自分が思う自分と人からみた自分って違ったりします。
全然違ったりします。
1枚ず皮をむいていくと自分が自分自身を勘違いしている事、実にたくさんあるんです。
みかんの皮をむいたら、中身バナナやった。みたいな。
よう入ってたな、みたいな。


パパのハイボールをコップに半分もらったら
二日酔いで頭割れそう
カナコです。




最近流行の前者、後者。
流行ってる場所はうちの近所だけ。



前者と後者
名前に特に意味はありません。何でもよいのです。
AとB。太陽と月。赤と青。なんでも。



人間の種類、ベース、ファンデーションとなるものを大きくわけたら、
という話です。
タイプ別とかって苦手〜、、、ってめんどくさい声がきこえそう。
まあええやん。



このふざけた分類をする中でホントの自分を探しにいくというハナシ。
注)これを使って、自分のベースを知っていくという方法の話なので、考え方や、価値観、道徳の話ではありません。
2つにわかれるので、人種よりも、血液型よりも、スケールは広い。深い。
とりあえず、前者、後者、で。

自分がどちらか、ということは一旦、置いてみて欲しい。
第三者として読み進めていくうちに、自分の好みが出できます。
前者になりたい人、後者になりたい人。
自分の願望が客観的に見える様になると
自分を見つけやすくなる。

ポイントは客観視です。


・前者の才能って、多くの事がバランスよくなぜかできてしまう。
・後者の才能って、一つの事になぜかずば抜けた力がある。




どっちも能力者。
種類が違う。




・前者って、物事や人の話の全体図の把握ができてしまう。分かっちゃうんっすよね。そういう脳内構造。
・後者って、物事や人の話のポイントにフォーカスする。自分のキーワードにフォーカスしちゃうんですよね。そういう脳内構造。



ここから一段掘り下げると



・前者の人って、話の全体図がわかるので、さらに細かい理論、理屈、ディテールにこだわった話ができちゃう。
仕事とか同時に出来るし、本も並行読みとかしてもこんがらない。

・後者の人って、話の全体図ってイマイチ分掴まなくても自分のピンポイントのキーワードをひらって理解していくので、キーワード重視の好みのポイントフォーカスでなんとなくで大きく捉えちゃう。


なので
すでに話の全体図、という理解がここで違ってくる。
注)この時点で、え、ややこし、理解不能となるとおそらく後者。




入り組んだ話になると、面倒くさくなった時点で思考がフリーズするのも後者です。
ややこしい事、好きじゃないの。はっきり言って、分からないの。でも分からないって言わない。シンプルが好き。グッとくる。自分のキーワードが大好き。あとはあんま興味ない。
なので、多くの人や情報があっても自分の世界に入りやすい。集中や瞑想などは得意。
カメラでいうと焦点レンズ。

逆に


前者はフリーズしない。あえてフリーズする事はできます。自分の引き出しと想像や可能性をイメージしながら自分に取り込み
イキなジョークを交えたりしながら、相手に新しい提案までもできてしまう。
引き出しの中はおもちゃ箱のごとく、あれとアレでこんな答え。いろんなジャンルに対応可能。
頭は常に動いているので応用や多くのの事実が見える。頭の中が動いている。
カメラでいうと広角レンズ。


構造が違う。


この構造の違うファンデーションをもつ人達が
人生経験をそれぞれに積み重ね、オリジナリティー満載になった頃
出会う。
先輩後輩として
師匠と弟子として
恋人として
兄妹として
夫婦として
親子として
相棒として
チーム員として
対人から複数になり
複数から個人にもどり


出くわすアクションで、それぞれに学んでいく。


前者と後者が入り組んだ世界で
何かしらのトラブルが起こる時



前者は心の中でこう思う。
話聞いてんのか。
なんやねんコイツ!
後者は心の中でこう思う。
機嫌わる…
なんやねんコイツ!



そして、前者は自分の持っている最大限の我慢と優しさでこういいます。
「まあえ え わ」
そして、後者は自分の持ってる最大限の我慢と優しさでこういいます。
「何か食べる?」



お互い
的外れにも程がある切り口で攻めてくる。
とにかく噛み合わない
夫婦や身内なら笑えるけど
これが、上司や先輩、大事な顧客だったり
お金なんかが絡んだら、ストレスでしかない。


それでも、なんとかして分かり合いたいと望んで傷つく
もしくは、もうええわ、って強がって孤独を選んで傷つく


どちらも心の底で自分を責めるのです。



この前者後者の定義は
心を扱う専門家達が今研究し続けて
構造にまで辿りついてしまったものです。
スタップ細胞くらいミラクルな研究だと
私は思っていて
この応用で多くの人が人間関係にとらわれず、
自分を開花出来るようになります。
本気で自分を開花してもいい時代になります。


前者後者の質感を知って
イキに扱うと
対人関係は笑いで見れるし
自分も生きやすくなる。
絶対にやってはいけないのは
前者後者を優劣で捉えてしまう事。
コンプレックスが深い人程
この定義を優劣で捉えてしまう。


本来なら、この天然を活かしてブラッシュアップをすると
どんどんその能力ってあがっていく。
自分のスペックを活かせば活かすほど、どうなるかというと
ミラクルが起きるようになっているしくみ。



そのミラクルって、、、
また今度( ̄▽ ̄)
早く知りたい人は
バシャールに聞いてちょうだい。
あ、バシャールって、宇宙人やしきをつけてな。





前者、後者のスペックに話を戻すと
本来、そのスペックで生きていけるのに
本来、そのスペックがごっつ魅力的なのに



経験や年齢、立場、性別、肩書き、職業、資格、
いろんなものを貼り付けて
わざわざ、わかりにくくするのです。
わざわざ。自分で。




なぜかというと、
自身のスペックに気づかず、(何故って自分にとっては当たり前すぎて)
違うスペックに対して、憧れて、欲しくて、さらにそれが「自分にはない」と
フォーカスを強めてしまう。


前者は突き抜けた能力が自分にないからと後者になりたがり努力する。
後者はマルチに出来ない自分をダメとして前者になりたがり努力をする。


これが心の奥の奥の奥の方にある「コンプレックス」の正体ではないかと思います。
さらに、バランスよく、という教育システムが追い打ちをかけるように、天然能力を塞ぎにかかるのです。
社会人になる頃には完全にロックされる。このロックが外れないと本当の自分に会いに行けない。

ダンスに置き換えると
前者のブラッシュアップの仕方と
後者のブラッシュアップの仕方は違う

あ、後者って
話の置き換えとか応用って
得意じゃない

あ、前者って
本質は同じ違う事
とか見抜ける

このコンプレックスの誕生や生活の「しおり」はまた別のシリーズで。

戻りまして


私の持っていないスペックは
あの人にある。



あの人にないスペックは
私にある。


優しい地球の仕組み



自分が自分を生きてこそ
周りも輝かせる事が出来る
自分を生きてさえいれば
勝手にほっといても
周りは輝く



お願いやから自分を生きてくださいな。
ってなる仕組みに地球はなっている。



みんな手を取り合って、とか
曖昧な事ではもう納得しない。


具体的にどーすんねん。
って気ずいてしまう時代に入ってしまった。


あるエリアへいくと突然その仕組みが分かるエリアが存在する。


うちではそんな発信も
ダンスを通じて
心を触りながら
していこうと思います。



あなたのためにわたしはいる。
わたしのためにあなたがいる。



自分が自分を生きるほうが
世界はまわる。








地球にフィットする。







前者後者トレーナー
地球のしくみ
































































2016年1月25日月曜日

ダンスのチカラ

夫がやっているMASAO塾の新年会に行きました。


新年会といっても


強化クラスの合同レッスンの一環。



内容は



・1人2分のソロパフォーマンスと



・フォーエイトカルチャーというMASAO先生オリジナルメニューのレッスン。
(バトル形式で8カウント✖️4を順番に踊っていく。それを1人10ターン。
ルールは間をあけない。相手の4エイト目の最後には自分は踊り出さなくてはいけない。4エイトで自分の武器をぶっ込みにいかなくてはいけない✖️10ターン。みんなフラフラ。途中から記憶はないらしい。)


この2つのメニューから個人のダンス力とメンタルとを分析して底上げしていくという強化クラスの新年会。



分析項目や色々な設定、根拠、は私はアホすぎて説明できない。。文章化するには1週間くらいかかりそう、、、。


とにかく
強制的にダンス力もメンタルもついてしまうというおそろしいクラス。
ま、強化クラスですんでね、受講している人は根性決めてきている人ばっかりです。


行ってびっくり、その人達の空気感。



めちゃくちゃピースです。


どうみてもHIP HOP 精神にのっとっている。(HIP HOPカルチャーにはちゃんと理念がある)


はい


声を出して


せーの



PEACE
UNITY
LOVE
HAVING FUN


ですね。




オールジャンルのダンサーさんがまんべんなく絶妙なバランスで集まっていて


個人が個人と向き合うというメンタルメニューも入っているせいか



自分と向き合えば向き合うほど開いていく方程式があるように




自分以外の人への受け入れ感がはんぱない。


優しい。



みんなみんなその場にいる人を受け入れている感はんぱない。



お互いが認めあっている感はんぱない。



団結感ともちがう



身内ノリともちがう



なんとも心地よい空間でした。




強化クラスなのに。



共通しているのは


ダンスと


自分と向き合うという作業をやっている人達。



という事、に私は見えた。



そして


私がやっている発達サポートクラスの
子ども達が、おうちのyoutubeでダンスをみているとの事で、刺激になればと思い、ライブで見に来てはどうかと誘ってみた所、、、




かわい子ちゃん達、来てくれたー。




お気に入りの服を着て



ネクタイして



来てくれたー。



外からその様子をみて

ドキドキ。



1人2分のソロパフォーマンスが始まると



とても集中してみているうちのかわい子ちゃん。



そして胸を押さえて一言








「緊張してきた…」




    、、、、、。




お母さんと私はハッと目をあわせて




出るつもり?????



と目を見開いた。



「はい」



だって。




爆笑したいけどしないこの瞬間が好き。



グッと我慢して
お母さんとその絶妙な空間を共有しながらMASAO先生に交渉してみた所、あっさりオッケーをくれた。


うちのかわい子ちゃんも2分のソロパフォーマンスをする事になった。




このソロパフォーマンス




自分が選んだ曲で構成、振付け、ステージング、全て自分でやらなくてはいけない。



2分のソロパフォーマンス、多くの人は途中、体もキツくなる頃、心も折れる。



そこにがっさり向き合いにいかなくてはいけない。



みんな次々とそれをやっていく。




緊張感と終わった人の倒れこみの中、





いけるか、うちの子!?



胸を押さえて順番待ちしとる!




「いけるか?先生一緒に踊ろか?」



と聞くと



「NO」


1人で行くと。


音先で(音楽を先に流してから自分は登場する)とステージングまでできとる。



うちのかわい子ちゃんには普段レッスンで振り付けをやっている曲にしようと思った。


ホットナンバー。

おい、このジャケットもキとるな。


曲は名前の通り、ホットなナンバー。



まさか、うちのかわい子ちゃんが踊るなんて思っていなかったので(心の底ではやりたいっていうかもしれない、しかし、、、と葛藤はしていた。)音を用意はしてこなかった。
でもDJのGINちゃんが、いとも簡単に


「あるよー」ってピッチも調整して用意してくれた。




そして



いっちゃった。



私は後ろから送り出したので




踊っている顔はみえなかった。




踊りきった、、、。



2分のソロパフォーマンス、やっちゃった、、、。




それはそれは込み上げるものがありました。


個人的主観だらけですよ。勝手にぐっときてますよ。



踊る姿はもちろんですが



体力が切れてきて、心も折れそうになる後半、



みんが、応援してくれました。



声を出して




行け行け



って。




でも、これって、うちのかわい子ちゃんにだけじゃなかったの。



みんながみんなにしていたの。



心が折れそうになる瞬間に誰かが応援してくれる。



そんな自然発生のルールがそこにはありました。




終わって私は涙腺がゆるんでしまってお母さんをみたら涙が出てしまった。


お母さんと抱き合ってその場をシェアしました。



踊ったのはこうちゃん。



涙しながら私と抱き合ったのは、だいちゃんのお母さん。



よその子の事で泣いてくれるママ。


こうちゃんのお母さんはわらってる


こうちゃんもわらってる

こうちゃん、楽しかった?どんな気持ち?こうちゃんの気持ちはこうちゃんのものやな。でも知りたいな。こっそり教えてよ。



しかしあれやな



今までレッスンでやってきた動きはひとつも出さなかったな。



どういうことや。



明日聞いてみよう



その後こうちゃんはみんなと同じようにバトルメニューも真剣にみていた。



うちのかわい子ちゃんは



ダウン症候群という名前と共に生きている。



多くの場合、社会では障がいといわれる。



2分のソロパフォーマンス。



あの場では障がいをフォーカスする理由がなかった。



いらなかった。



いらないよね。




ソロパフォーマンス。




どうやって自分を見せますか?



シンプルな事ですね。


地球で生きる人間は



本来それでいいはず。



それでいいように、



ダンスも音楽も、芸術も、



あらゆるツールがあるんだと私は思うんです。


上手い人がすごいというよりも


かっこよく踊る人がすごいというよりも


障がいがあって踊る人がすごいというよりも


ダンスそのものがすごいんだと



ダンスのエネルギーそのものがすごいんだと



うちでは理解しています。



このエネルギーをみたくて




このエネルギーに魅せられて




生きている人、生きてこれた人が



世界中にいる。




これがダンス屋専門店の視点です。



残念ながら、そこに障がいや、肩書き、立場でさえも必要ではないのです。



自分を生きる。



本当の自分になる事だけが必要なのです。



私達は、ダンスのチカラを圧倒的に信じているのです。















日本一になったスーパーキッズ。
ダンスの時間が終われば宿題やってないーーーー。

ってかわいいとしかいいようのない女の子。


しかしまーよー笑う



キャベツみてわろとる。



いっぱい食いなはれ。


お疲れちゃん。










































2016年1月23日土曜日

受け取ると歪まない

日本の風習で謙遜というのがありますね。


かわいですね⇨いえいえ




うまいですでね⇨いえいえ




すごいですね⇨いえいえまだまだです





いろんな場面で適応されますし、それが当たり前だとおもって使っていました。



ある時、ふと、気がついてしまった。




私は自分の事を猛烈に不細工だと思っている。



不細工はなにをやってもダメだと思っている。



何か得意な事があっても、さいごはでも不細工だしな、とか、わけのわからん使い方をする。



不細工だから、ファッションは個性的にとか



化粧も念入りに



目と目の間をいかに狭くするかを研究し続ける。



帽子好きなのも、もとをただせば顔を隠したいから


不細工だから、せめて個性的でいなくては



不細工だから性格良くならなければ

とか





何処へいってもなにをしても「不細工」が追っかけてくる。




娘が産まれておもった



かわいい




かわいい





かわいい





友人の赤ちゃんが産まれておもった



かわいい




かわいい



かわいい





娘が赤ちゃんじゃなくなって



今、ややこしい事やいろんな事をしてくれるけど



かわいい




友人の子どもも




かわいい




もちろんレッスンに来てくれる子ども達もかわいい



命がまるごとかわいくて




かわいいしかいいようがないのです。




なのに




自分の娘を



かわいいねっていわれて



ふーっと笑って一言も返せない私。




なんやったら、おもしろおかしく、そんなことないです的な言葉とエピソードネタを必死でさがす。




この作業にいつも違和感を感じていた。




自分の心に正直に生きるなら、かわいいと心底思っているのに




そうではない反応をしなければいけないと思い込んでる私に



自分で自分が苦しかった。




思い出した。




むかーし




むかーし




小さい頃



お母さん同士の立ち話で




お母さんの足元にくっついて



話が終わるのをまっている間にきいた会話



おばちゃんが「かわいーなーかなちゃん(私)」



お母さんが「いや、ほんま不細工や、目と目が離れてなーヒラメみたいで笑うやろ?」




ときいてその時知った。




私は不細工なんだ。だめなんだ。と。





お母さんはなんっちゃない、ただの会話の返しだし、


私を愛して育ててくれた事実は変わらない。本心ではないのが今ならわかる。




が、しかし、



こんな小さな小さな事が、




こんな小さな小さな事を、




1番信頼しているお母さんがいうんだから間違いない情報として取り込んで、信じて、信じ切って、その後何十年も生きていくのだ。



あまりにも小さいきっかけ。


でも、小さい私は悲しかった事を思い出した。



本心ではない母の言葉で幼いなりに傷ついて、そのままここまで引っ張っている。



かわいいね⇨ありがとう



と受け取れば、小さな私は悲しまない。



かわいいね⇨ありがとう



と受け取れば、あの親、空気読めない、ちょっと変わってるよね、、。


とヒソヒソ話されるのが嫌で反対の事を言わなくてはいけないのかな?



なんかおかしいよね。



なんだ?日本語。



英語ならTHANKSで終わるよね。




この風習とあいまいな表現が、日本人のアイデンティティーをぼやかしていると思うんだなー。



かわいいね⇨かわいいんです♬



かわいいね⇨ありがとう



でいいじゃない。



最近、



かわいいね⇨かわいいです!



ってパパや若者夫婦が増えてきた。



私はこういう人達に出逢うと安心する。



親バカなんです。っていわれると安心する。



親バカ全開でいいのです。



かわいいね⇨には直球でありがとうと受け取ればいいのです。


わざわざ変換させて複雑にして幼い子に歪んだ情報を渡さなくてよいのです。



かわいいね



好きやで




愛してる



と言われ続けて、なんかわからんけど、根拠のない自信がある子どもになればいいのです。



根拠のない自信。



自分は大丈夫だ。



自分は失敗しても大丈夫だ。



なぜって



私だから、僕だから、と。根拠のない自信を育てる事が大事なんです。



その自分がこの先何十年も、自分を支えてくれるのです。



そんなアイデンティティーをもつ若者が世界へ出ていくのです。



世界を動かしていくのです。




人間のもっているポテンシャルを塞いではいけません。



多くの場合、このポテンシャルを塞いでしまうのは、残念ながら、親自身だったり、教育者と言われる立場の人だったりします。

なので


どんな人に出会っても



折れない自分でいれるような




根拠のない自信が必要なのです。





娘を抱っこしてると




かわいいなーって言われた。よし、さっそくおためしだ!
とおもったらすかさずパパが

「かわいいんですわ、たまりませんわ」


と速攻でかえしてた。なんやったら、さらに言いたげだった。


コイツ、、、



完全に負けた気になった。



空気を読まない勇気が必要なのです。



根拠のない自信といいましたが




根拠はあります。




根拠は愛です。




うちの子最高なんです、って言えるには、親自身が自分に向き合う必要があるのです。







2016年1月22日金曜日

心がオープンになる瞬間を逃してはいけない

ある秋の日曜日




「今日俺休みや…」って朝突然気がついたパパ。






身体の疲労MAX。ゆっくり寝たい願望MAX。そんな時は





#八丁浜( ̄▽ ̄)






一日中海で過ごす。




ひたすら。






海とか山とか空とか地球を感じると身体に溜まった疲れとかすり減った気になった心も一気に整う感じがする。






とくに海にくると自分の身体がチャクラがデッキブラシでゴシゴシ波でザブンザブン洗ってくれると勝手に思い込んでる私。





ひょっこりうっかりほんとのキモチが出てきたり。





はまた海か、って言ってたわりにずっと走りまわって遊びたおしてる。ずっと。





三つ子の魂百まで、というけれど、記憶になくても、海、山、星、空、風、土、光…なるべく地球を体感してほしいなとおもています。






地球の優しいエネルギーが娘が大きくなった時、きっとこの子を支えてくれると、いろんな事を教えてくれるとおもてます。









#空つかめるかおもた#加工ナシの八丁浜#海に入りたい#




そうだ、波乗りをもう一度。



やり残した自分をむかえにいこうときめた。
















2015.10.15